50頭からのスタートイメージ
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プロフィール
馬場通(ばば・とおる)
1953年北諸県郡高城町(現・都城市高城町)生まれ。1972年宮崎県立農協講習所卒業後、高城町農協に就職。退職後、1979年より就農。1985年「宮崎県畜産共進会豚枝肉部門」にてグランドチャンピオン(優等一席)を受賞。1987年より地元銘柄豚の造成に参画し、「観音池ポーク研究会」の発足に関わる。2001年有限会社とんとん百姓村(現・有限会社観音池ポーク)代表取締役に就任。2008年に同職退任後、2012年に再就任、現在に至る。

四人きょうだいの長男として生まれる

日本で初めてNHKがテレビ放送を始めた昭和28年(1953年)、人々は街頭テレビに映し出される力道山の空手チョップに熱狂しました。終戦から8年が経ち、日本が復興に向け動き始めていたこの年、私は北諸県郡高城町(現・都城市高城町)に生まれました。4人きょうだいの四番目で長男。家は養蚕をはじめ、稲作、養牛や養豚などを営む農家でした。
朝、農作業の支度をする両親に見送られ、小学校に通学。家に帰ると毎日、牛や豚へのエサ遣りや畑の草刈りなどを手伝っていました。いずれは自分も農業の仕事に就くと考え、高校は都城農業高校畜産科に進学。卒業後は、現在の県立農業大学の前身である県立農協講習所に進み、農業経営を学びました。講習所で学んだのちは、地元である高城町農業協同組合に勤めることになります。昭和48年(1973年)のことです。

当時高城町には約270戸の養豚農家がいました。私は養豚技術員として各農家を廻り、豚の登記の仕事などをしていました。併せて養豚農家同士の情報交換の場として養豚振興会というグループの立ち上げにも関わりました。仕事は多忙を極めましたが、いろいろな生産者の方と直に接し、現場の声を聞くことができたのは貴重な経験でした。

26歳、養豚人生のスタート

昭和40年代前半、養豚は農家の副業や堆肥を作る手段として、数頭程度が飼育される庭先養豚が多く見られました。その後、生産効率の高い大型の豚が広まるようになると、食生活の洋食化や栄養価の高い飼料の導入とともに、養豚を専業とする農家や企業養豚が急速に普及していくようになります。

実家も庭先養豚から脱皮し、専業で進めていくか、別の品目にするかの岐路に立たされていました。父親は養豚専業に舵を切り、50頭の豚の導入を決断します。当時、私は農協の職員でしたが父の決断を受けて農協を退職し、家業を手伝うことにしました。1979年(昭和54年)、私が26歳のときです。それは40年以上続く私の養豚人生の本格的なスタートでもありました。

私は当時、やる気に満ちあふれていました。50頭で始めた豚を軌道に乗せ、100頭、200頭と増やしていこう。養豚技術員として数多くの現場をみてきた経験やノウハウを生かせる自信もありました。

ところが「好事魔多し」です。農場での作業中、ふとしたタイミングで父が操作する草刈り機と接触し、足に大けがをしてしまいます。全治4か月の重傷でした。歩くことすらできず、ベッドで寝たきりになりました。悪いことはさらに続きます。入院中に自分たちの農場で豚コレラ(CSF:豚熱)が発生したのです。豚コレラは豚熱ウイルスにより起こる豚、イノシシの熱性伝染病で、強い伝染力と高い致死率が特徴です。治療法はなく、発生した場合の家畜業界への影響が甚大であることから、家畜伝染病予防法の中で家畜伝染病に指定されています。豚コレラに感染した疑いのある豚は殺処分の対象になります。また農場から半径4.5キロで移動制限がかかり、近隣の養豚農家も出荷ができなくなりました。私は自分が動けないもどかしさに加えて、病気を出してしまった後悔の念、周囲へ迷惑をかけ申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。退院後も自宅と農場以外一歩も外に出ず、ひたすら事態が収束するのを待つ日々でした。

苦難のあとの栄光

豚コレラが終息し、農場を再開してからは、まさに死に物狂いで働きました。ここでくじけては、家族の生活を守れないですし、再開の後押しをしてくれた方々にも顔向けができません。豚舎の見回りや衛生管理も今まで以上に徹底し、「生まれた豚は一頭も死なせない」という覚悟で毎日仕事に取り組みました。

併せて、エサや飼育方法にも独自に工夫を重ね、これまで慣例的に行ってきたことにも、なぜそうするのか、どうしてこうなるのかなど、常に問いかけをしながら取り組むようにしました。

エサに関しては、例えば食物繊維が多いシャクチリソバの葉などを与え、豚の腸内環境の改善を試みました。いいと思ったことはまず実行してみる。結果をみて、また次の行動を起こす。このような取り組みが少しずつ実を結び、肉質の向上という目にみえる成果が出てきます。

1985年(昭和60年)、宮崎県の牛および豚の生体と枝肉の品質を競う「宮崎県畜産共進会」に参加、ここに出品した豚が枝肉部門でグランドチャンピオン(優等一席)を獲得したのです。農場を再開してから6年目、32歳での栄冠でした。審査は接戦を極め、僅かの差で私が勝ったようでした。このときお世話になった方、地域の方を自宅に招き、ささやかな謝恩会を開いたのは、今でも良い思い出です。受賞を自分のことのように喜んでくれる方たちの姿をみて、苦しくても諦めないことが大事であり、周りに感謝すること、地域を大事にすることなど、すべてが自分の糧となり、よい仕事につながると感じました。

このような経験から、もっといい豚を作りたい、もっと地域や消費者の皆さんに喜んでもらいたい、そんな気持ちが強くなりました。私が「観音池ポーク」という銘柄の造成に関わるのは、それから数年後のことです。

いきものとともに、地域とともに。
馬場宅で行われた共進会受賞謝恩会の様子

構成 石井亮作(ライター)